鬼滅の刃の魅力

 『鬼滅の刃』、全巻読破しました。
 自分は音楽にはまってからはそんなに漫画を読まなくなっていたのですが、世間でこれだけ話題になっているとさすがに興味が沸きます。
 で、たまたま近所のラーメン屋に行ったら置いてあったので、読んでみるとなかなか面白く。
 そこから勢いがついて、ネカフェに行って全巻読んでしまいました。(アニメも全部観ました)

 この作品の魅力について、色んなサイトで色んな評がなされていますが、自分的に一番刺さったのは、「人の存在意義」をテーマに、それを「家族の絆」で表現していたところです。

 この作品の本質はバトル漫画ではないと思います。
 ストーリー的にはバトルものになっていますが、戦いの場を舞台にしているだけで、作者さんが表現したかったのは、「ひとの生きる意味」を「家族愛」に軸足をおいて描いた、ヒューマンドラマだと思います。

(以下、ネタバレあります)

 単純に漫画としては、『ジョジョの奇妙な冒険』の影響を強く感じました。
 世間でもそうした指摘はなされているようですが、作者自身、ジョジョの影響を認めているそうです。
 まあ、ジャンプに連載する漫画家は、基本的にジャンプ読者出身です。だから当然といえば当然。

 ただ、多くのサイトで設定などの類似点が指摘されていますが、個人的にそこは正直どうでもいい。
 何故なら、そうした舞台設定は、この作品の本質にとっては重要でないと思うから。
 単にバトル漫画としての評価なら、緻密な設計がされているわけでもないし、むしろ勝負の説得力という点ではあまり優秀でない漫画だと思う。何より主人公、打たれ強すぎる。体力無限すぎる。短期間どころか時間単位で成長しすぎる。

 けど、作者さんがジョジョから一番インスピレーションを受けている部分は、たぶん第一部の黒騎士ブラフォードのエピソードと、ジョジョと父親の関係。そして第二部でのシーザーが父親と再開するエピソードでしょう

 鬼滅で描かれている、鬼が最後に人間時代の記憶を取り戻すところや、愛されていなかったと思っていた自分が、実はちゃんと愛されていたといった逆転エピソードの原型はここにあると思う。
 ただ、ジョジョはむしろ男子向けのバトル漫画が主軸で、そうしたエピソードはあくまで作品の彩りのような存在でした。
 でも鬼滅では、そうした人間としての尊厳や、不器用な家族の愛情表現のドラマにスポットを当てて、むしろそれを物語の軸に、バトル漫画の舞台を用意したように思い、そこがジョジョとは決定的に違う部分です。

 とにかく、ひとの生きる意味や存在意義を、家族愛の中で表現したのが心にせまる。
 こういう漫画って、ありそうで意外となかった気がする。
 特に戦いもので「愛する人」となると、たいがい男女の恋人設定がほとんどだ。
 それはそれでドラマになるけど、恋人への愛と家族の愛って性質が逆で、恋愛的な「愛」は、ある意味「後天的」に発生するものだけれど、家族愛というのは、人が先天的・根源的に持っているもので、それだけに、心の奥底の根っこを揺さぶられるものがあるのです。

 いい歳こいて、ネカフェで鬼滅を読みながら何度も泣いてしまいましたよ(笑)
 それも、漫画のキャラクターに感情移入してどうのとうよりは、そこで表現されたものに、自分の中にある家族への想いのようなものが揺さぶられて、涙が出てきてしまう感じです。

 家族というのは、無条件に自分を受け入れてくれて、信じてくれて、そして何より、生きていること、元気でいてくれることを心から願ってくれている存在です。
 
自分の生きる意味、この世に存在する意味を失いかけたり、自信を失ったとき、戻ってこれる場所。
 家族を誇りに思える限り、たとえ今の自分自身が無力で未熟だったとしても、自分自身の誇りと明日に向かう勇気を取り戻せる。

 人間というのは、心理学的にも自分の存在意義というものを求める存在です。
 「自我の確立」という言葉で表現されますが、はじめは親に依存した存在でありながら、思春期を迎える頃に…というより、自我の目覚めから、思春期を迎えます。

 親なしでは生きられない自分ではなく、自分一人で自立した「一個の存在」として認められたいという気持ちが生まれ、承認要求が生まれます。
 恋愛感情も、そこには動物的な生殖本能もあるけれど、家族という無条件の愛を与えてくれる存在ではなく、自分を愛してくれる外的存在を求めることで、自分の存在意義を獲得するのです。友情の絆を価値に思う感覚も、そうした自立した自我の一つです。スターがファンの応援を嬉しく思うのも自分の存在意義の確認です。

 ただ、恋人や仲間との絆をテーマにしたバトル漫画はいくらでもありますが、家族愛をテーマにしたバトル漫画って、少ないように思います。
 家族愛をテーマにしたドラマは沢山ありますが、どちらかというと生活ドラマになりやすい。
 それをバトル漫画で表現するって、斬新じゃないだろうか。(自分が知らないだけかも知れないけど)

 で、その描き方も、わざとらしいっちゃあわざとらしいけど、人間心理をうまく突いてます。

 本来なら無条件で無限の存在であるはずの家族なのに、それを得られず、普通の人なら誰でも持っているはずの、根源的な自分の存在意義を見失っているキャラクターが多数登場します。または、炭治郎のように、それを奪われたキャラクター。

 でも、この漫画で共通しているのは、ほとんどのケースにおいて、ただ自分が知らないだけだったり、誤解であったり、つまらない意地によって見失っているだけで、本当は家族から心から愛されているという真実を見つけ、最後には人であろうと鬼であろうと、邂逅して穏やかに成仏していきました。

 これ、本当に心に響きます。

 恋人や友人への絆が軽いとは言わないけど、家族への想いって、それとは本質的に別のもので、自分自身が人間としての「核」に持っているようなものだから、そこに触れてくる感覚は、何とも言えない、他にかえがたい感情が呼び起こされます。

 家族って、身近すぎるがゆえに、愛情表現を表には出さなかったり、言葉にしないことも多いと思います。
 でも、誰しも、言いたかった「ありがとう」、言えなかった「ごめんね」が、沢山あると思うんです。

 だから、この漫画を読んでいると、時折、心が痛くなることもある。
 感動しての涙じゃなくて、自分自身に対する後悔なんかも思い出されて、つらくもなる。

 ただ、そうしたシーンで想起される感情は、必ずしも家族だけじゃないかも知れない。
 人によっては、家族のように大事にしていた親友や、恋人への想いかもしれない。
 いずれにしても、ひとは、そんな完璧な人ばかりじゃないと思う。
 人それぞれの、言えなかった思い、伝えられなかった感情、そして信じたかった願いなんかが重なるんだと思う。

 こんなにも人がばたばたと死んでいくのに、陰惨な感覚でなく、むしろ読後感がすっきりしているは、悪役であるはずの鬼のバックボーンを描いていたり、死んでいく隊員が穏やかに成仏する様が描かれているのもあるけれど、そこにある本質は、最終話に書かれている「人の数だけ物語がある」という言葉に集約されていると思う。

 この言葉、実は僕自身も、ずっと昔から思っていた言葉でした。

 たとえば、学生時代の部活で、本になったり武勇伝として語れるエピソードとなると、野球でいえば甲子園で優勝したとか、そういう話でないとドラマにならないように思われがちですが、実際は予選で落ちたような学校だったとしても、そこに本物の情熱があったのなら、そこにも必ずドラマがあり、その重さと価値に違いはないと思うのです。

 ちょっと安っぽいかも知れないけど、仕事ですごく嫌な客に遭遇したり、理不尽な上司、自分勝手な部下に出会ったとして、何をどう考えて相手に非があると思ったとしても、「自分が知らないだけで、その人がそういう行動に出たのは、そうならざるを得ない人生の物語があったのかも知れない」といったことを思うことで、自分を納得させてました。

 辛いこと、嫌なことがあった時は、街の灯りを見ながら、「あそこにも、ここにも、あの光の中には、人がいて、家族がいて、人生があって、その人がそこに住む前にも誰かがいて、その人のドラマがあって、その建物を作った人にも家族があって、人生があって、きっとそこには、嬉しいこと、哀しいこと、うまくいったこと、ままならないことが誰しも数えきれないほどあって…」なんてことをずっと考えていると、だんだん自分の悩みがすごく矮小に思えてきて、気持ちが落ち着いてくるんです。

 鬼滅から話が外れたように思うかも知れませんが、この作品に対する批判によく、「哀しい過去があったからって、人を殺した罪が許されるのか」という意見をよく目にします。
 たぶん現実なら、許されないし、もし自分の立場でも、許せないんじゃないかと思う。

 でもまあそこは漫画だから、その正当性の理屈じゃなくて、鬼たちの過去の回想シーンそのものに、ただ心をゆすぶられるだけなんだと思う。
 例えば、下弦の伍のルイが消えるシーンでは、自分が殺してしまった両親に対して、「全部、僕が悪かったんだ、本当は謝りたかったんだ」と言い、「僕はお父さんやお母さんのいる天国にはいけないよね」と言ったことに対して父親は、「いいんだ、ルイと一緒なら、地獄でも一緒についていくよ」と言う。
 こういうやり取りに、なんとも言えない気持ちになる。

 決して、謝ることで罪が許されるわけじゃない。
 けれど、それも受け入れ、許すとかじゃなく、その罪を一緒に背負って、地獄だってついていくという、両親の無限の愛情。そこですよね。
 あれは、両親の霊なのかどうかはわからない。もしかすると、ただのルイの願望による妄想かも知れないけど、こうした想いって、誰もがそう思っていたい、想われていたいという願いではないでしょうか。

 このように、鬼滅の作者さんは、「人の数だけ物語がある」というのをコンセプトにおきながら、敵であってキャラクター一人ひとりに、物語性を持たせてこの作品を書いていたから、奥深さが生まれ、ただ悪者をやっつけて爽快になるというのではなく、物語全体を通じて「もののあはれ」的な、しみじみとした読後感を生んでいるんじゃないかと思います。

 人気がでるだけのことはある、なかなか、良い作品でした。

 あと、アニメも良いですね!
 世間でも評価が高いように、映像、演出がすごくきれいです。
 先に書いた
下弦の伍のルイとの戦いなんかは特に、音楽の使い方もよかったし、劇場版かと思うほどのクオリティ。
 人気になるわけです。

 

  

 


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