西洋料理の歴史
8.アメリカの外食産業の誕生
●開拓時代のアメリカ
西洋食文化の発展史において、アメリカの存在と影響も外すことができません。歴史的には後発のアメリカは、開拓地であり、多民族国家であったことから、ヨーロッパとは異なる形で外食文化が発達し、世界に影響を与えました。
十六世紀頃からヨーロッパによる植民地化が始まった北米大陸は、1620年にピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号でアメリカに渡ってから、新国家樹立への動きが本格化します。
その後、独立戦争を経てヨーロッパ本国の支配から独立し、1783年にアメリカ合衆国となりました。新大陸アメリカに渡った人々は、はじめは故郷ヨーロッパと同じような食文化を作り、金持ちは腕の良いフランス人シェフを連れて高級レストランを開くなどしていたので、ニューヨークやボストン、シカゴといった主要な大都市には、ヨーロッパにひけをとらないようなレストランがいくつも存在していました。
それが、十九世紀中頃にゴールドラッシュがはじまると、大陸内地への移動が盛んになり、そのための鉄道が整備されていきましたが、そのことがアメリカに新しい外食文化を発達させることになりました。
当時の鉄道は速度が遅かったので、その移動は大変な長旅であり、鉄道利用者にとって、どこで食事をとるかは大きな悩みの種でした。
一応、旅行者のためのホテルやそれに付随するレストランがあるにはあるものの、当時の内陸部は、流通・経済・文化あらゆる面において発展途上だったので、まともなレストラン自体が存在しませんでした。
その上、移民間や先住民との抗争も激しい時代だったので、見知らぬ地で、見知らぬ食堂にうかつに足を踏み入れると、身の危険はもちろん、食中毒やぼったくりに遭う危険性とも背中合わせ、というような有様で、当時の中西部の外食環境は、非常に劣悪な状況でした。
●フレッド・ハーベイと「ハーベイ・ハウス」
そこに、フレッド・ハーベイ(Frederick.Henry.Harvey,1835〜1901)という人物が登場します。
鉄道で切符販売の仕事をしていたハーベイは、鉄道利用者が食事の場に困っているという潜在的ニーズに目を付け、1875年、カンザス・パシフィック鉄道の駅に、美味しい料理をきちんとしたサービスで提供する、安心して食事ができるレストランを開いたところ、たちまち大繁盛しました。
その成功に自信を持ったハーベイは、レストランを多店舗展開するビジネスモデルを考案し、それに興味を持ったサンタフェ鉄道と手を組んで、「フレッド・ハーヴェイ・カンパニー」を設立し、鉄道沿線に次々とレストランやホテルを立ち上げ、鉄道内にも食堂車を設けます。
そして、約三十年の間で100以上ものレストランやホテルを展開するまでに成長し、飲食業を「企業化」するという、これまでになかった飲食のビジネススタイルを確立しました。
何より斬新だったのは、ハーベイは自身の経営するレストランの品質を守るために、料理やサービス、衛生レベルについて、様々な基準や規律を設けたことです。
料理については、シカゴの「パーマー・ハウス」という高級ホテルからウィリアム・フィリップスという腕の良い料理人を引き抜いて総料理長とし、全店舗の料理をフィリップスのレシピに統一して徹底し、パンのカットのサイズも統一し、オレンジジュースは絞りたて以外の提供を禁じ、コーヒーは抽出後二時間で必ず廃棄するといったように、全ての商品の細部にまで基準を定め、どの店舗でも同じ品質で商品が提供される仕組みを作り出しました。
また、鉄道沿線で事業展開している利点を活かし、料理の下ごしらえを本部で集中調理し、鉄道で各店に配送することで、品質を安定させるとともに作業効率を上げてコストダウンするという、現在のセントラルキッチンのようなシステムも作りました。
さらに特徴的なのが、「ハーベイ・ガール」と呼ばれたウェイトレスです。
ハーベイが展開するレストラン「ハーベイ・ハウス」では、はじめ黒人を接客員に雇っていましたが、当時はまだ人種間の対立も激しく、そもそも西部方面にはアウトローが多かったので、店内で乱闘事件が発生することが多々ありました。
そこで、接客員を女性にすれば、顧客も穏やかに食事できるのではないかと考え、若い女性を接客員として雇うことにしたのでした。
そして、その採用にあたっては、まず容姿に高い採用基準を定め、さらに厳格な規律と教育制度を設けて徹底した従業員教育を行いました。
そのルールは私生活にまで及び、生活は寮で母親と供にすることを義務付け、門限を23時に定めて夜間の外出は禁じ、契約期間中は結婚も禁止されるという、まるで現代のアイドルのように厳しく管理されましたが、その厳格なルールと引き換えに、破格の高給が約束されたのでした。そうして躾けられた女性従業員達は非常に質の高い仕事をし、美しく上品で、常にアイロンされたエプロンを着て清潔感のあるサービスをする姿は、ハーベイハウスの最大の魅力のひとつとして評判になり、その女性達は「ハーベイ・ガールズ」と呼ばれ、1883年には、ジュディ・ガーランドを主役に「ハーベイ・ガールズ」という映画まで作られるほどの人気となり、当時アメリカの女性からは就職したい職業のNo.1に選ばれるほどでした。
また、内装や食器類にはヨーロッパから取り寄せた高級品を使用し、利用者にもドレスコードを設け、ジャケットとネクタイを着用しなければ入店を断るようにするなど、単なる街場の大衆食堂ではなく、紳士・淑女が食事をする場として、利用者のマナー向上にも取り組みました。
このようにして、料理からサービスに至るまで、明確な基準による管理手法で展開したハーベイハウスは、アメリカで最も質の高いレストランと評されるまでになりました。
こうした、旧来のように優秀なシェフをスカウトして店を開いたり、弟子を独立させて支店を増やしていく手法(日本でいう「のれん分け」)ではなく、仕組化した管理手法を用いて多店舗展開する手法は、レストランにおける「チェーン手法」の先駆けであり、旧来のヨーロッパには存在しなかった経営手法でした。
そして、以後のアメリカのレストランビジネスにおいて多大な影響を与え、現在で言うところの「外食産業」を生み出すことになります。このように、広大な開拓地であったアメリカの地理的条件と社会的背景が、ヨーロッパとは異なる外食文化を形成していくことになります。