日本の西洋料理の歴史

17.大正時代の世相と食文化


●大正期の時代背景

 1912年から始まる大正時代は、「大正ロマン」という表現に象徴されるように、西欧のロマン主義の影響を受けて、美術・建築・芸術分野に新しい造形・スタイルが流行し、製造業では西欧の産業革命に倣って工業化が進み、交通・メディア・生活文化のあらゆる分野において西欧の新技術や文化が導入され、そうしたハイカラな新時代の文化が開花しはじめた時代です。大正時代に入る直前の1911年(明治四十四年)には、東京に帝国劇場も開業しています。
 この時代に日本の文化が躍進した背景には、1914年(大正三年)に勃発した第一次世界大戦により、軍需産業やそれに関係する事業者を中心に経済が潤ったからことが大きくあります。1918年(大正七年)の三井物産の夏のボーナスは月給の四十ヵ月分出たという話があるくらい、一部の大商工業家はこの「戦争景気」に沸き、いわゆる「成金」が多く生まれ、それらの恩恵を受けた人々がモダンな文化を築き、新時代を謳歌しました。ちなみに、「ハイカラ」という言葉は、明治後期に生まれた言葉です。

 洋食も、そうした「ハイカラ」な人々に好まれて広まりを見せ、精養軒や中央亭、東洋軒といった老舗の名声店は、全国に次々と支店を増やしていきました。また、洋食文化の広まりに伴い、西洋食材の生産も増え、価格も下がり始め、洋食の値段も少しずつ手頃になっていきました。さらに、明治後半より訪れたカフェブームにより、カジュアルな西洋式の食や喫茶のスタイルも、日本人にとってより身近なものになっていました。

 ただ、大正期の大半の日本人にとっては、洋食は必ずしも身近な料理ではなかったようです。大正期の雑誌や小説などで、街の洋食屋や洋食の作り方が登場し、あたかも洋食が広く普及していたかのように思われることもありますが、そもそも当時は、雑誌・小説を買って読むような層自体が、日本全体から見ればごく一部の富裕層であり、大正前期はまだ、洋食は決して廉価なものではなく、裕福な暮らしが出来る層の食べ物に過ぎませんでした。
 この、「裕福な暮らし」、という感覚が、現代と当時とでは大きく異なります。大正時代の日本はまだ発展途上国であり、大多数の庶民の食生活は質素というよりもはや「粗末」で、そのことは、大正期における二大国民病のひとつが依然として栄養失調病の「脚気」であり、それによって年間二万人以上も亡くなっていたことが、当時の食生活事情を端的に表しています。
 
 日本全体が豊かになって生活水準が向上し、「一億総中流」という言葉が生まれるのは、1970年代になってからのことなので、まだまだ先の話です。明治から昭和初期の格差社会は、現代からは想像もつかないほど激しいもので、大半の一般庶民の生活は非常に貧しく、教育水準も決して高いものではありませんでした。当時は、小学校に行くことも当たり前ではなく、1900年(明治三十三年)に尋常小学校の授業料が無料化されてから、一般庶民の子供でも小学校に行けるようになりましたが、それでも通学率が九割を超えるのは大正時代になってようやくのことでした。

 また、1918年(大正七年)に作られて流行した、「ワイフ貰って、嬉しかったが 何時も出てくるおかずはコロッケ、今日もコロッケ、明日もコロッケ、これじゃ年がら年中コロッケ、アハハハ、アハハハ…」という歌詞の『コロッケの唄』をひきあいに出して、この時代にコロッケは国民食になっていた、と解釈されることがありますが、これは時代背景が考慮されていない大きな誤解です。
 そもそもこの歌は、三井物産の創始者・益田孝の次男である益田太郎男爵が、帝劇の取締役時代に作詞したもので、庶民の間で生まれた歌ではありません。当時、洋食を作れるような女性というのは、女学校や料理学校などで教育を受けたお嬢様だけだったので、「洋食を作れるようなお嬢様を奥さんに貰ったけど、作ってくれるのは毎日コロッケばかり…」、という、おノロケ話を面白可笑しく歌ったものです。
 ハイカラなパン粉とじゃがいもを主材料に、食用油をふんだんに使ったコロッケは、当時は金持ちでなければとても毎日作れるものではありませんでした。当時の国民病だった「脚気」の原因はビタミンB1の欠乏によるものなので、ビタミンB1が豊富に含まれているじゃがいもを使ったコロッケが当時の国民食になっていれば、国民が脚気に苦しめられることはなかったでしょう。
 この歌が流行したとされる1918年は、先に書いたように戦争景気によってボーナスが月給の四十ヵ月分も出るような会社が存在した一方、物資が戦地に送られたため国内では物価が高騰して一般庶民の生活は困窮し、シベリア出兵のための米の買占めによって食糧難になり、全国で歴史的な米屋の打ち壊しが発生し、当時の寺内内閣は総辞職に追い込まれたほどでした。そのような状況でコロッケを毎日食べることが出来たのは、あくまで一部の「勝ち組」な人々の話です。
 また、終戦と同時に戦争景気も終わり、1920年(大正九年)には、その反動となる「戦後恐慌」が発生し、日本全体が激しい不景気に見舞われました。
 紡績工場で働く過酷な女工達のルポタージュである『女工哀史』や、製糸工場の悲惨な実態を描いた『あゝ野麦峠』の舞台は、まさにこの大正時代であり、社会には激しい貧富の差が生まれ、プロレタリア文学が流行した時代です。
 このように、大正時代は、新時代の華やかな一面はあるものの、それはまだ日本全体からすれば一握りの話であり、洋食文化が本当の意味で日本の一般大衆に定着したと言えるのは、もう少し先のことです。

 ただ、こうした経済の荒波が、別の形で日本の新しい食文化の形成を促します。元来日本人には、外食を日常的に行う習慣はなかったので、街に大衆的な食堂はそれほどありませんでしたが、第一次世界大戦後の不景気や物資不足、米騒動などを受けて、大阪や東京に「簡易食堂」と呼ばれる公営の大衆食堂が初めて誕生し、安い外食店を利用することが少しずつ日常的になっていくなど、日本人の食のライフスタイルに変化が生まれました。

●多様化する洋食

 大正期の「洋食」は、ホテルやレストランで提供されているような西洋料理だけに限らず、かなり幅の広いものになり、ある種風変わりな、日本独自の発展を見せるようになっていました。相次ぐ恐慌や食糧難で一般庶民は生活に苦しんでいると言いながらも、一部の成金たちは新しい西洋文化をどんどん日本に持ち込んだので、結果的に洋食の食材が日本に広く流通していったからでしょう。
 かつて、「ソースをかければ何でも洋食」という言い回しがあったくらいで、大阪では野菜を小麦粉や卵の生地とあわせて焼き、ソースをかけて食べるという、今のお好み焼きの原型ともいえる料理が生まれ、この料理は「一銭洋食」と呼ばれていました。
 この時の「ソース」とは、主にウスターソースを意味します。ウスターソースは、もともとイギリス生まれの調味料で、その代表的存在が、現在も販売されている「リー・ペリンソース」ですが、日本でも明治の中頃にはウスターソースが製造されるようになっていました。
 このウスターソースで手軽に味付けした洋食のスタイルは、関西を中心に流行したようです。というのも、日本におけるウスターソースの発祥は関西で、日本最古のソースメーカーである「阪神ソース」の創業が1885年(明治十八年)の神戸で、日本で最初にウスターソースを製造した「山城屋(現・潟Cカリソース)」が創業したのが1896年(明治二十九年)の大阪と、ともに関西であったことが大きいでしょう。
 厳密には、それより早くに関東でも作られていた記録はあるのですが、全く売れなかったためすぐに製造を辞めたので、実質的に関西が発祥の地とされています。

 大阪の名物料理の代表である「お好み焼き」は、今では洋食とは言われませんが、アメリカ由来のメリケン粉を焼いてイギリス式の洋風ソースで食べるという、今までになかった新しいこの料理は、当時としては西洋スタイルの食事の一種と受け止められたのかも知れません。大阪名物にはその他にも「たこ焼き」や「串カツ」など、ソースをかけて食べるものが大阪ではかなり根付いていますが、こうした習慣が生まれた原点はここにあると考えられます。
 なお、もともとウスターソースはサラっとしたソースで甘みは強くなく、現在の日本で一般的なウスターソースや、トンカツなどによく用いられるドロっとした甘辛いソースは、第二次世界大戦後の頃から日本独自に進化したソースです。
 このように、日本に持ち込まれた新しい西洋食材を用いた新しい食べ方が、どこで誰がと言うでもなく、自然発生的に生まれていきました

 

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